形稽古と竹刀稽古


 

約束事のない竹刀剣術の活用は、その人の剣道を完成させていく のに大変役に立つのであるが、そこには剣の本質をわきまえ、真剣の理合に則った組太刀の修行が伴わなければ何の意味もない。況や 現代剣道の如くただ勝負だけを争うものでは、それは競技であって、剣道の本質である技心を身につけることは不可能である。即 ち、現代に於ては、特に形稽古の本質と竹刀稽古の本質の完全な合 体こそが、我々が目指す正しい剣道の本質を把握する唯一の方法で あると言える。それには中西派の稽古法の原則である、形稽古で剣 の技術、刃筋の正しさ、撃突の機微、間合、拍子の定義を学び、竹 刀稽古で約束事にとらわれぬ自由自在な技、体の運用、猛烈な稽古 による明らかな眼、瞬間の技、及び体の変化を学ぶことである。


形稽古の竹刀稽古への応用


現代剣道に於る技にも、形より出発したものが多数ある。簡単に 例を挙げれば、摺上技、張り技、抜き技、捲き技等は、すべて一刀 流組太刀の中に存在するものである。また、大太刀一本目「一ツ 勝」は先先の先の気(真の本勝)を用い、二本目「乗突」は先の先 (行の本正)、三本目「鍔割」は後の先(草の本生)の気を以て行う ものであるが、この間合、拍子、打突の機会等はすべて竹刀剣道に 通ずるものである。次章に著者の父・佐三郎が著わした、一刀流竹刀稽古法を掲載してあるが、この中に一刀流組太刀を活用した技が 多数記されている。当時の竹刀稽古の様子をよく表わしたものとし て大変興味深い。中西道場の竹刀稽古はこうしたものであったのだ ろうと思う。

 

さて、竹刀稽古では形の如き約束ことはなく、咄嗟の間に勝敗を処理しなければならない。打つべき機会に於て、攻め方に於て、防ぎ 方に於て、また変化技に於て、その方法を知らなければならないの である。特に打つべき機会は最も大事な要点であり、ただわけもな く打っていっても敵を倒すことは出来ない。それには打突の好機と いうものがあるから、この機会を知り、その機会をとらえたならば 少しの晴踏もなく果敢な攻撃をかけねばならないのであるが、これ は平素の数多き稽古に於て身につけることが大切である。 その打突の好機とは、敵の技の起り端を打つことである。一刀流 組太刀の技に照し合せながら解説していく。 人間は打とうとする時、技を仕掛けようとする時に、いわゆる 「隙」が出来るのである。っまり人間が技を仕掛けようとする離 動こうとする端が大切な打っ機会なのである。組太刀二本目「乗 突」の技にはこの理合がよく示されている。この他に動く端と言え ば、何等かの理由、例えばこちらの気勢に押れて逃げようとする端 などは、これも打つべき好機である。組太刀二十本目「脇構之打 落」はこの所を教える。この出端と退き端は、剣道の打つべき二大 好機とされているから、ここを逃してはならないのである。 また、敵がこちらに技を仕掛けて来てその技が尽きるところ、こ れも打突の好機である。組太刀三本目「鍔割」の手法である。 敵がこちらの技を受止めた時、そこも打たねばならない機会で ある。 また、自ら好機を作る場合がある。即ち、小手を剣先で攻め、敵 がこれを防ぐために、竹刀を右に寄せ小手を防ごうとして正面があ く、つまり正面に隙が出来る、その瞬間に正面を打つ。この場合攻 める方法は、下から小手を攻めるのと、上から小手を打つと見せて 正面を打つ、一つの方法がある。 また、正面を打つと見せて、敵の右小手を打つのである。かくの 如く、左を攻めて右を、右を攻めて左をというように使うのである。組太刀十本目「下段之打落」に見られる手法である。なお敵が 打とうか打つまいかとためらって、その場に居付いて動かぬと見た ら、直ちに攻撃を仕掛けて、打つなり突くなりして勝を取るのである。 後は各自の工夫によって打つ場合を作るのである。基本的には、 上下左右に竹刀の剣先を動かし攻めて、自ら敵に隙を作らせて打つ ことが誘い技の基本である。 最後に、敵と相対している時、敵の心の隙に乗じて打つことがあ る。敵の気を打つ、「真の本勝」、組太刀一本目「一ツ勝」の気位で ある。しかし、それは精神的な攻防になるから、自他共に百戦練磨 の修行の結果に於て生み出されるものであり、筆紙の説明以外のも のである。

 

現代の竹刀稽古では、剣道本来の剣の真諦を把握することは出来 ない。従って形稽古を行うことの出来ぬ人は、禅によってでも竹刀 稽古の欠点を補い、剣の本質たる「生死超脱」の途を考えてもらい たいものである。現在の竹刀稽古では如何に熱汗を絞っても、剣道 の本質に到達することは不可能である。それには、中西派の主唱し た形稽古と竹刀稽古の併用が第一で、それから禅によることも、最 終点に到達する一つの方法であると信ずるのである。

          高野弘正著「兵法一刀流」より